2:あのころ




























あのころ…そう、それはもう、記憶の片隅に微かにしか残っていない程度の記憶。

いっそ忘れてしまえば良かったのに、どうしても、忘れ切る事ができなかった記憶。

微かにしか残っていない記憶なのに、鮮やかな彩りをもって俺の記憶の一部を占領している。

はっきりと覚えているのは鮮やかな笑みと共に差し出された小さな掌と、

軽やかに跳ねる赤茶の髪を追いかける俺。

どうしても思い出せないのは、決定付ける特徴の全て。

名前も、声も、とても印象的だったあの笑顔さえ。

顔も覚えていないんだ。会っても気付かないかもしれない。

あちらも俺を覚えている保証などない。

けれど…日付も時間も確信はないけれど…

今日、『あの場所』に行けば、また会える気がして。

柄にもなく少し焦った歩調で、先を急ぐ。


『いっしょにかえろ!』


言われた台詞や小さな仕草ははっきりと覚えているのに、


『ここね、ないしょだよ?ひみつきち!!』


どうしても思い出せないのが、眩しいとさえ思ったその笑顔。


『おおきくなってもいっしょにいたいね。

 ーーも、てにすしたらいっしょにいられるかな?』


そして、幼い子供ならではの自分で呼ぶ彼の名前。


『いっちゃうの…?』


見覚えのある道に出て、『ひみつきち』が近い事を悟りながら歩を進める。


「手ー塚!」


突然呼ばれた自分の名に後ろを振り向けば、大切な恋人が俺に笑みを見せて立っていた。

酷くバツの悪い気分になって、思わず眉間に皺を寄せる。

これは、言うなれば彼に対する裏切りかもしれない、と思うからだ。

俺が今から会いに行こうとしているのは、わずかながらも幼心に想いを寄せていた相手。


「菊丸…お前、どうして、こんな所に。」


内心の動揺を眉間の皺以外には出さずにそう訪ねると、菊丸はにこ、と笑った。


「約束してるんだ。」


そう言いながら、途中まで一緒に行ってもいい?と聞いてくる。

少し戸惑いながらも一度頷けば、菊丸はありがとう、と言って俺の横に並んだ。


「手塚は、どこに行くの?」

「少し…野暮用を、な。」

「ふぅん。」


手塚が野暮用なんてめっずらしー!などと言いながらも菊丸はそれ以上聞いてこなかった。

聞こえないよう、安堵のため息をつく。

暫く話をしながら歩いて、俺、こっちだから、と菊丸は手を振って去って行った。

どこへ行くんだと聞きたかったけれど、聞けない。

これから行く場所と少しの淡い想いが、彼への後ろめたさとなって心臓をジクジクと刺している。

今は菊丸しか見えていないと誓って言えるけれど、こうして『あの場所』へ向かっている事で

すでに彼を裏切っている事になりはしないだろうか。

そればかりがぐるぐると灰色の塊となって胸の中を回り続けていた。


「ふぅ…。」


重たい息を吐いて、それでも思い出せないあの頃の為に歩を進める。

暫くして、見えてきた『ひみつきち』。

竹藪の中に小さなトンネルがあって、その先に開けた場所がある。

ボロボロのソファと、散らばった漫画雑誌。

狭いその空間が、何よりだった頃がある。


「狭いな…。」


伸びた身長の分だけ余計に狭く感じられるようになった小さなトンネルに身を屈めながら、

『あの場所』へと続く道を通っていく。

もう少し。そう思い顔を上げると、『あの場所』に人影が一つ。

それはとても、見慣れたもので。


「菊丸…?」

「遅かったじゃん、手塚。」


ザ、と明けた視界が狭い空間の中にいる菊丸を映している。

何故、と思う前に、フラッシュバックする記憶。


『おおきくなってもいっしょにいたいね。

 えーじも、てにすしたらいっしょにいられるかな?』


鮮やかな笑顔は、今よりもずっとずっと幼い、彼。


「頭良いくせに、こーゆー時には役に立たないんだねー。

 あっちの方が近道って教えたの、忘れてた?」

「英、二?」

「いきなり名前で呼ぶなよ。久しぶり過ぎて照れるっての。」


口を尖らせる彼を引き寄せれば、いつものようにすっぽりと収まる。

天すら覆う竹藪の隙間から、あの頃のようにわずかに差し込む光。

嬉しそうに抱き付いてくる彼を、ぎゅう、と強く抱きしめた。


「英二。」

「…誉めてよ。引っ越したお前に会う為に、テニスしようって思ったんだから。」

「あぁ…しかし、連絡先は教えてあっただろう?」


自分の連絡先を教える事に手一杯で、彼の連絡先を聞かなかった事を後で酷く後悔した。

鳴らない電話を、じっと眺めていた幼い日を思い出す。


「…。」

「英二?」


突然黙った菊丸に、抱きしめていた腕を放して彼の顔を覗き込んだ。


「泣くのわかってて、電話なんかしねーよ。」


『いっちゃうの?くにみつくん、いっちゃうの…?』


そう聞いてきた菊丸は、目に涙を溜めていても、決して泣くことはなかったことを思い出す。

他の誰かが引っ越す時は、わんわんと泣いていたにもかかわらず。

…あぁ、そうか。


「ずっと…10年前からずっと、好きだった。」

「…うん、俺も。」


ふわりと触れた唇に、あのころの君の涙を見た。









終。