それから暫くの後。

柔らかな涼しい風が菊丸の頬を撫でた時でした。

ゆっくりと、国光の部屋に近付いてくる気配。

菊丸はハッと顔を上げて、神経を研ぎ澄ませます。


『不二だ。』


その、術者独特の少しピリピリとした空気に彼の存在を悟りました。

聞いていたよりも帰りが随分と早い。と思いましたが、

膝の上に国光の頭を乗せている以上、身動きが取れません。

国光を起こせばよいのかもしれませんが、また寝始めてさほど時間が経っていない為、

起こすのは酷なように思えました。

逃げられないのなら、今更気を張っても意味がない。

菊丸は小さく息を吐き、金の瞳のまま近付いてくる気配に警戒を続けます。

ギシ、と少し床の軋む音がして、背にある御簾が、ゆっくりと上げられる音がしました。


「それ以上、手塚に触れないでくれる?」


じゃら、と菊丸の背後で響いた音はおそらく数珠でしょう。

背を恐怖と怯えにピンと伸ばしつつ、菊丸は国光の髪を撫でる手を止めました。


「英二、だったね。

 『もう二度とここには近付かないでよ。』って、言わなかったっけ。」


その言葉に、菊丸は一度頷きを返しました。


「君の名が知れている以上、君はボクに対して服従の義務がある。

 わかってるよね?」


その問いにも、菊丸は一度頷きを返します。

名は、身を縛るもの。

術者相手に名を明かしてしまえば、そこには服従の義務が生まれます。

義務といっても一般的な意味などではなく、名を知ることによって術者は妖の身を縛れる為、

“強制”を前提とする、義務です。


「どんな妖術を使ってたらし込んだかは知らないけど、手塚は元服を控えてるんだ。

 君に手塚を殺す意志がないのはわかったけど…

 それ以上悪い影響を与えないで欲しいんだけど。」


後ろ首に差し出された札が、ジリ、と僅かに菊丸の肌を焼きました。


「っ、ぅあ゛…。」


痛みにびくりと動きそうになった背を、必死で菊丸は保ちます。

小さく荒い息を繰り返しながら国光を見やれば、

膝の上に頭を乗せている国光は、穏やかな顔で未だ眠っていました。

菊丸は安堵に小さく息を吐きます。

不二はその様子を見て一瞬目を見開いた後、差し出した札を引きました。


「手塚…?」


呆然と、不二が国光の名を呼んだ時です。


「不二!帰って…」


御簾が上げられ、喜とした大石が部屋に入ってきました。

菊丸は不二と国光に、不二は菊丸と国光に意識を向けていた為、

大石の近付いてきた気配に気付きませんでした。

驚いて振り返った不二…そして菊丸を見て、大石は喉の奥に小さく悲鳴を上げます。

金の瞳。

鋭い牙。


「妖…!!!!」


一瞬顔を恐怖に歪めたものの、横たわる国光の身体を見て大石は顔を怒りに変えました。

ス、と大石は持っていた太刀を抜きます。


「貴様…手塚に、何をした…!!!」


カタカタと震えているのは、恐怖からか、怒りから。

そんな大石を見て、菊丸は少し悲しそうに目を伏せました。


「大石。」


どうしようか、と菊丸が思案していると、

大石の持っていた太刀の棟(むね)に不二の手が添えられます。


「不二…?」

「太刀を退いて、大石。」

「な!?」


棟から手を離し、驚く大石を見ながら、不二は再度「太刀を退いて。」と言いました。

ギ、と奥歯を噛み締めながら小さく頷くと、大石は太刀を鞘に収めます。

大石の視線は不二と菊丸を彷徨い、その視線は困惑と心配で満ちていました。


「出よう、大石。」


そう言って大石の腕を掴み、不二は彼の反応を待たずに部屋の出口の方へ向かいます。


「不二!?」

「…英二。もう次はないよ。

 二度と、この家に近付かないで。」


そう言うと、不二は菊丸の返事も大石の抗議も聞かず、

大石を引きずるようにさっさと部屋から出ていきました。

途端にしん、とした部屋の中。

菊丸は小さく息を吐いて、未だ眠っている国光に視線を向けます。


「妖術…か。」


ジリジリと痛む後ろ首の傷は、暫くすれば治るでしょう。

けれどそれ以上に、


「わかってるよ。」


ぽつり、と呟いて、菊丸は国光の髪を撫でます。


「俺は、妖だから。俺は、男だから。手塚の子を成すなんて、できないし。

 本当はこうやって会いに来てるだけでも、手塚には迷惑だろうし。

 …でも、ゴメン、手塚。」


金から溢れたしずくが頬を伝って落ち、国光の茶の髪を濡らしました。


「俺、お前のこと好きなんだ…。」


音として発した言の葉にジリジリと痛むのは、

後ろ首の傷ではなく、痛むはずもない、名称すら菊丸の知らない場所でした。




























「不二!!!」


余程のことがない限り大声など上げない大石が、

尚も腕を引っ張り続ける不二に痺れを切らせて声を上げました。

途端、ピタリと足を止めた不二に思わずぶつかりそうになりながら、

大石はきつくした視線のまま不二を見ます。


「不二!!!どうして妖と手塚を二人にしたんだ!!何かあったのかもしれないだろう!?

 まだなかったとしても、今からどうなるか…」

「大石。」


大石の言葉を遮って彼を呼ぶ不二に、大石は言葉を止めました。


「寝てたんだ、手塚。」

「…は?」


驚いて聞き返す大石に、不二は続けます。


「寝てたんだ、あの妖の膝を借りて。

 ボクがあの妖に何を言っても、何をしても、起きなかった。」

「それ、は!あの妖が妖術でも使ったんじゃ…!!」


グ、と拳を握りしめてそう言った大石を見ながら、不二は首を左右に振りました。


「見たでしょ?あの妖には角がなかった。気を張った様子もないって事は、彼は『亜鬼』だよ。

 それも、殆ど妖力なんてない…いわば、雑魚。」

「それなら、何で手塚は…!!」


理解できない、と首を左右に振る大石に見るともなく視線を向けて、不二は小さく息を吐き、

その口に歪んだ笑みを浮かべました。


あの、手塚が。

どんな状況だろうと声をかければ必ず起きる、手塚が。

余程疲れていたのだろうか。

…おそらく、違うだろう。


「困った、なぁ…。」


不二の小さな呟きは、青く晴れ渡った空に吸い込まれて消えました。









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棟=刀の刃じゃない方。刀の背。刀背(とうはい)、峰(みね)とも言います。
  因みに『峰打ち』は、『刀背(みね)打ち』とも、
  『棟(むね)打ち』とも『刀背(むね)打ち』とも言います。