「初めまして。」


塀から上手く着地した直後、突然真横から投げかけられた声に菊丸は驚いて振り返りました。

振り返った先には、穏やかな笑みを浮かべた少年が一人。不二です。

その腕に巻かれた数珠が、彼が術者であることを表していました。

一般人と違い、術者にはどんなに気を張って姿を偽ろうとも妖である事はわかってしまいます。


「君かな?昨日ボクの結界を破ったのは。」


にこやかな表情に比べ、その纏っている雰囲気は似ても似つかないほど凍り付いています。

顔をサッと青く染めた菊丸は、ジリ、と足を半歩後ろに下げました。


「あ、動かないでね。何で結界が効くことなく移動できているかは知らないけど、

 それ以上動いたら、君を消滅させるよ。」


もう半歩動かそうとしていた足を、菊丸はぴたりと止めます。

身体が、ガタリ、と震えました。

決して、菊丸に対抗の術(すべ)がないわけではありません。

その身体能力を活かすなりなんなり方法はありますがこの場合、

菊丸にとっての状況は明らかに不利です。


「何が目的なの?誰かを殺した訳でもなさそうだし、

 何かを盗んだ訳でもなさそうだし。」

「それ、は…。」


口ごもる菊丸に、不二はす、と笑むように目を細めました。


「早く答えてくれるかな?ボク、暇じゃないんだけど。」


ビク、と肩を揺らした菊丸を見据えながら、不二はそのまま菊丸の言葉を待ちました。


「て、手塚に、会いに…。」


暫くして菊丸の言った言葉に、不二は笑んで細めていた目を見開きます。


「手塚って、手塚国光…?」

「う、うん…。」


返事を返して一度頷いた菊丸を見て、不二は小さくあの馬鹿…と言って、舌打ちをします。

視線をきつくして、一歩、菊丸に近寄りました。


「手塚に、何の用なの?」

「用ってわけじゃ、ない、けど…。」


用があるのか、と言われれば、菊丸に用事などありません。

ただ国光と話がしたくて、遊びに来ただけなのですから。

小さく首を振った菊丸を見ながら、不二は大げさに息を吐きました。

その音に再度ビク、と肩を揺らした菊丸の目の前に、不二は持っていた数珠を突きつけました。


「まぁ、いいや。とにかく、もう二度とここには近付かないでよ。

 あと、名を名乗ってくれる?そうすれば、逃がしてあげるよ。」

「え…。」


菊丸は、目を見開いて不二を凝視します。

逃がす代わりに、名を名乗れ。

それは、ある意味拷問よりも厳しい条件です。

菊丸が口を開こうとすると、先に不二が口を開きました。


「嘘の名を名乗っても、消滅させるよ。」


名は、身を縛るもの。


「ッ…。」


奥歯を噛み締めて俯いている菊丸を見ながら、不二はイライラと言葉を紡ぎます。


「…早くしてって言ってるんだけど。」


その瞬間でした。





「英二先輩!!!」





聞き慣れた声が響いて菊丸の身体を強く掴み、不二が驚いた一瞬の間にザッ、とどこかへ消えていきました。

本当に一瞬の出来事に、不二は小さく舌打ちをして手を下ろします。


「英二、ね。」


けれど、名はわかった。

不二はふう、と息を吐いて、屋敷に戻って行きました。




























「アンタ、何してるんスか!!!!!!」


不二の前から姿を消してそのままあっという間に森の小屋に戻り、

越前は掴んでいた菊丸の身体をぱ、と放すと同時に、強く怒鳴りつけました。


「ゴメン、おチビ。」


いつもの菊丸なら、あんな失敗はしない。

越前に術者や町で過ごす事の危なさを教えたのが菊丸なら、警戒の仕方を教えたのも、菊丸でした。

勢いもなく俯いてぽつりと謝った菊丸に、越前は怒鳴った時の勢いも忘れ、深くため息を吐きました。

菊丸の纏っている雰囲気もおかしい。

いつもなら、謝ったすぐ後に町にいた事を咎めるはずなのに。


「先輩、なんかおかしいッスよ。警戒、忘れ過ぎてんじゃないの?」


越前の言葉にピクリと反応した菊丸は、ゆっくりと顔を上げます。

その表情を見て、越前は酷く驚きました。


「やっぱ、おかしいよな。…俺も、そう、思う。」


越前は、菊丸の笑った顔と怒った顔とふざけている顔と、心配する顔。それだけしか見た事がありませんでした。

今の菊丸は、そのどれでもない、とても弱い表情をしています。

手を伸ばしていつものようにぎゅっと抱き付いてきた菊丸に、越前は呆然と立ちつくす事しかできませんでした。


「先輩…?」

「おかしいんだよ…わかってるんだ。」


その言葉は、まるで自分に言い聞かせているかのようで。


「助けてくれてアリガトな、おチビ。

 暫く、町には行かないからさ。」

「…そうして、下さい。」

「ん。」


町には行かない、と言った直後、少しだけ強くなった腕に、越前は戸惑いを隠せませんでした。









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