感情誘導論。
 =本論06・彼の想う先=




























「先輩。」


菊丸が記憶を無くしてから5日。

今日も3年6組の教室に無愛想な少し高めの声が響く。


「あーおチビ!毎日お疲れー!!」


ひらひらと菊丸が手を振りながら立ち上がって不二と二言三言言葉を交わすと、

そのまま越前のもとまで駈け寄ってきた。

菊丸の記憶は、未だ戻っていない。

けれど、この5日間でもとよりの性格が幸いしてクラスメイトともすぐに打ち解けたし、

部活も、身体は覚えているのだろう、

菊丸の動きは以前のものに随分と近付き、大石とのダブルスも様になってきた。


「今日はどこ案内してくれんの?」

「今日は特別教室の方へ行ってみましょう。」


自分の所為だから、と、越前は校内案内を買って出た。

同じクラスだし、するよ?と言う不二にも譲らず、

この5日間越前は昼休憩にこうして菊丸を誘いに来る。

もうすっかり皆慣れた様子で、

菊丸が気付かなくてもクラスの誰かが知らせてくれたりするようになった。


「特別教室かー。今の所授業でも使わないし、まだ行ったことないんだよねー。」

「じゃぁ丁度良いッスね。」


会話を交わしながら、渡り廊下を渡り、階段を上がる。

丁度そこで、その階にある生徒会室から出てきた手塚と出くわした。


「部長。」

「越前に…菊丸、か。」


すでに癖になりつつある後に呼ぶその名に、手塚は一瞬、

越前にも菊丸にも気付かれない程瞬間的に、その眉間の皺を深くする。


「あ、手塚だー!何でこんな所にいんの?あれ、生徒会室って事は、役員?」

「いや、俺は…。」

「部長は生徒会長ッスから。」


言おうとした手塚を遮って、越前が菊丸に言った。

その少しの違和感に、手塚は越前を見る。

越前の表情はいつも通りだけれど、以前から続いている嫌な予感に手塚は顔をしかめた。


「生徒会長で部長?わー…大変だね、手塚。」


顔を微妙にしかめながら菊丸はそう言い、心配そうに手塚を見る。

そんな表情の菊丸の頭に、手塚は無意識にポン、と一度手を置いた。

きょと、と目を丸くした菊丸に、ハッとして手を上げる。


「え、撫で…た…?」

「あ、いや…。」

「わわ、わ、わ、わ!!!おおおおチビおチビおチビ!!見た見た見たっ!?

 今、撫でたよ!!手塚が俺を撫でた!!!」


記憶を無くそうと無くすまいと、恋人であろうとあるまいと平等に厳しい手塚は、

それまでと同じように菊丸にも厳しくしていた。

精神的に未だ中学3年生に追い付かない菊丸にとっては、

手塚は年上の怖ーい鬼部長、という印象が酷く強いのだ。

そんな手塚が突然見せた、以前の菊丸へしていた癖のような、柔らかな接触。

記憶のない菊丸が驚くのは、当然だった。

鬼部長なのに!!!と、バツの悪そうな手塚をよそに酷く興奮気味に、

嬉しそうに話す菊丸を見て、越前はムッとし、顔をしかめる。


「わー!わー!!み、みんなに自慢しなきゃ!!手塚に撫でてもらったー!!」

「菊丸先輩!」


強く菊丸の名を呼んだ越前は菊丸の腕を掴んで手塚に一度頭を下げ、廊下の奥に突き進んでいった。

越前の行動に不信感を覚えたが、それよりも手塚は自分の行動に驚く。

菊丸の髪に触れた、掌を見つめた。


「まずいな…。」


以前、記憶を失う前は、人前では菊丸の雰囲気やその話の内容で

そんな雰囲気になるのをわざと避けていた。

今の菊丸はそんなことを考えるわけではない。

11歳だと思っていたという言葉通り、記憶を失う前よりも口調も仕草も、思考も幼い。

外見も性格も、劇的に変わった、というわけではない菊丸の一つ一つの行動は、

手塚にとってはある意味毒だった。

例え菊丸が忘れてしまっていても、手塚にとって菊丸は恋人で。

恋愛対象として、好きな人で。

無邪気に行動される度、素直に感情を言葉にする度、惹かれてしまう。

共にいたのがもうすでに知られている越前だったから良かったものの、

もし他のレギュラーメンバーだったなら、一発で手塚の内なる感情などばれてしまっただろう。

手塚としては構わないと思うが、

はっきりと話し合ったわけではないにしろ、以前の菊丸がそれを望まなかった。

望まないものを、押しつけるわけにはいかない。


『手塚!』


記憶が消えた今、間違っても恋人だったなどとは言えない。

もしも告げたとして、菊丸自身に嫌悪を視線を向けられる確率は恐ろしい程高い。

他の人間ならともかく、

想いが通じていたはずの菊丸自身にそれを向けられて平気でいられる程、強くはないだろう。

唯一この世界でその事実を知っているのは、当人である手塚と、越前のみ。

例えば越前が知らない、と言ってしまえば、なかった事に容易く出来る。

証となるものなど、何もない。

それはまるで切れかけた糸。

あの菊丸の仕草を見る限り、どれだけ未だ手塚が想っていても

『もう一度』を菊丸に望むのは無謀だろう。

竜崎の話ではあと数日中には戻るだろうと言っていたが、もし、戻らなかったら…?

見つめていた掌が、僅かな震えを訴える。

情けないな。

そう思い、手塚は自分に渇を入れた。




























「ちょいちょいおチビぃ!?何だよ、待てって!」


越前に引きずられるように歩いている菊丸が、前を行く越前に声をかける。

すると、越前はピタリと足を止めた。

ぶつかりそうになって、菊丸も慌てて足を止める。


「先輩。そんなに嬉しいですか?」

「へ?」


振り返った越前は、いつもよりも険しい顔をしている。

越前はイライラしていた。

先程の行動で、手塚がどれほど菊丸を見ているのかなどわかりきってしまった。

菊丸が記憶を無くした時、駈け寄ろうともしなかったくせに。

微かな、僅かな動揺しか滲ませなかったくせに。

もう5日も経っているにもかかわらず今まで何もせず、いつも通り過ごしていたくせに。

必要異常な接触を取らず、厳しいままだったくせに。

こんな状態になっているにも関わらず、尚も隠し通そうとしているくせに。

…それなのに、あれだ。

あの柔らかな接触がどれほどの想いを含んでいるのかなんて、越前にもわかる。

もどかしい。今までずっと、あのような感じだったのだろうか。

あんな事をずっと、一年も続けていたのだろうか。



菊丸は、それで幸せだったのだろうか。



「部長に頭を撫でられたこと、そんなに嬉しかったですか?」


越前の問いに、菊丸は満面の笑みを返す。


「えー!だって、手塚だよ!?あの手塚が!鬼ぶちょーが!!

 俺の頭を撫でたんだよ!?嬉しいに決まってんじゃん!!」

「部長のこと、好きですか?」


興奮気味に話す菊丸に問うと、菊丸はピタリと動きを止めた。


「好きだよ?だって鬼部長だけどあいつスゲーもん。

 何だよ突然。おチビ、もしかして手塚のこと嫌い?」


ケロッと答えられて、その問いをそのまま返される。

その菊丸の『好きだよ』には、恋愛感情など微塵も感じられない。

おそらく記憶がないことによって年上に見えてしまう彼への、

素直な尊敬と友情…ほど近くはない、仲間意識。


「別に、嫌いじゃないッスよ。

 凄い人だとは、思ってますし。」


いつか倒してやりますけど、という言葉を続けようとした越前の言葉を遮り、

菊丸はガバ、と越前に抱き付いた。


「だよなだよなー!!手塚ってすっごいよな!!」


自分のことのように喜ぶ菊丸に、越前のイライラは増した。


「先輩。」

「あ、ヤバ!もう昼休憩終わっちゃうじゃん。

 おチビ、特別教室はまた明日な?」


帰ろ、と続ける菊丸に、越前は一度ため息を吐く。


「ッス。」


ため息と一緒に、押さえ込んでいた『ナニカ』が出て行った。









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中一菊ってどんなだったかなぁ、と思いつつ。
菊は年下だったら、ものすっごい素直に塚を尊敬してると思います。
あの先輩凄い!って。